江戸幕府の
代官とは、
勘定奉行の配下で幕府直轄領の支配を担当する役人、つまり幕府直属の地方行政官です。関東筋・畿内筋など各地域に代官役所(
陣屋)が置かれ、江戸時代後期にはおよそ40人の代官によって、400万石にもおよぶ幕府直轄領の支配が行われていました。つまり、一人の代官が平均10万石の支配を担当していたことになります。これは、中程度の大名(1万石以上が大名と呼ばれた)と同じ位の規模です。代官は、この広い支配地域において、年貢の徴収などの他に、管轄下の村々の戸籍(宗門人別帳)の管理や紛争処理、治安維持や罪人の処罰、村方への貸付金の運用など、行政・司法・警察・金融と、実に様々な業務をこなさなければなりませんでした。しかも、それら多様な業務を手代・手付など数十人程の代官所付役人が担っていたのです。逆に言えば、この程度の人数で広大な幕府直轄領を支配することができたのは、各村々が村役人を中心として自治的に運営されていたことを示してもいます。なお、代官を務めている人物が幕府から支払われる俸給(役料)は、150俵というわずかなものに過ぎませんでした(必要経費は別途支給されました)。代官は、あくまでも幕府、すなわち徳川家の領地支配を代行する役人なのです。
では、どのような人が代官を務めていたのでしょうか。韮山の江川家や京都の小堀家などのように、代官職を世襲していた家もありましたが、特に江戸時代中期以降は、勘定所の役人が昇進していく中で、各地の代官を歴任するというのが一般的だったようです。例えば、江川坦庵の盟友として、また開明派の幕府官僚として知られる
羽倉外記も、関東代官など各地の代官職を歴任した人物です。
韮山代官も、他の幕府代官と同じように幕府直轄領を支配する代官の一人です。その支配地域は時期によって変化しますが、おおむね伊豆国(現静岡県)を中心として駿河国(現静岡県)・相模国(現神奈川県)・武蔵国(現東京都・埼玉県)・甲斐国(現山梨県)をその範囲としていました。また、伊豆諸島が管轄下に入っている時期もありました。石高は5万石から10万石余(当分預所を含めて)におよんでいます。
韮山代官の役所は江戸と韮山の二か所にあり、江戸役所で武蔵・相模・甲斐、韮山役所で伊豆・駿河の支配を担当していたと考えられています。また、代官役所の業務を補佐する出先機関として、三島に三島陣屋、甲斐国都留郡に谷村陣屋、駿河国富士郡に松岡陣屋が置かれていました。
英龍は、文政7年(1824)から代官見習として父英毅の仕事を補佐し経験を積んだ後、天保6年(1835)に韮山代官となりました。当時の日本は全国的な飢饉(天保の飢饉)に見舞われており、多くの餓死者がでる一方で物価が高騰し、各地で一揆や打ち壊しが頻発していました。また、異国船が相次いで来航し、燃料・食料の給与や通商を求めてくるなど、まさに内憂外患にさらされていたのです。
そうした中で代官となった英龍の前には、解決しなければならない問題が山積していました。特に、天保9年7月に韮山代官所支配に編入された甲斐国都留郡は、その2年前に甲州騒動(郡内騒動)と呼ばれる大規模な打ち壊しが発生した地域で、いまだ人心も荒廃しており、統治の難しい土地として知られていました。しかし英龍は、事前に身分を隠しての民情視察(甲州微行)を行うなど、実情を把握していただけでなく、正式に支配を開始してからは、有能な手代を派遣して公正な民政を実施させました。また、困窮した村方に対して長期低金利による貸付金を設定するなど、金融面での施策も積極的に導入しています。その結果、都留郡の人々は英龍に心服し、郡内のあちこちに「世直江川大明神」と書かれた幟を立てて英龍の善政を賞賛したと伝えられています。このように、代官としての英龍は民政にその能力を大いに発揮し、名代官としての名声を得るにいたったのです。
英龍が代官となった天保期は、幕府政治の上では水野忠邦が老中首座となって天保の改革を推し進めようとしている時期でもありました。水野は、内政面では都市への人口集中を抑える人返しの法や、物価引き下げを狙った問屋・株仲間解散令、年貢増徴と江戸への水路確保を目指した印旛沼干拓、外交面では薪水給与令によって異国船に対して柔軟な対応を取らせる一方で、海岸防備体制を強化し西洋砲術の導入を図るなど、数多くの政策を打ち出しています。英龍は、水野の下で代官としての高い行政能力を評価されるとともに、西洋事情に明るい開明派の実務官僚として各種の海防論を建議し、西洋砲術の導入にも積極的に関与していきました。しかし、水野忠邦が上知令(江戸・大坂周辺の私領を幕府領に編入する法令)をきっかけに失脚したことで、英龍もまた幕政の表舞台から一旦身を引くことを余儀なくされてしまいます。英龍が再び活躍の場を得るには、嘉永6年(1853)のペリー来航を待たなければなりませんでした。
ペリー来航をきっかけに、英龍の存在は老中阿部正弘ら幕府中枢部の注目を集めます。早速勘定吟味役格に抜擢された英龍は海防掛をも兼ね、安政2年(1855)正月の死の間際まで、江戸湾防備の実務責任者として奔走することになります。幕末の海防政策において英龍の果たした役割は大きく、西洋砲術の普及・台場築造・反射炉建設・農兵の採用など、その業績は多岐におよんでいます。また、安政元年の大地震によって、ロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が座礁した際、その代船となる洋式船の建造にあたったことも、特筆すべき点です。
安政2年正月、病をおして江戸に出たことから容態の悪化した英龍は、多くの蘭方医の治療にもかかわらず、55歳の生涯を閉じることとなりました。その死を知った老中阿部正弘は、なくてはならない有能な幕臣を失った嘆きを「空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽せし」という歌に託して、英龍の霊前に贈ったといいます。