坦庵は、韮山代官として幕府直轄領の民政に尽力する傍ら、
蘭書の研究にも力を注いでいたといいます。中でも兵学の分野には特に関心を持ち、西洋における陸海軍の編成法、築城術や守城・攻城法、小銃や大砲のような火器の製造技術とその運用方法などについて、多くの知識を得ていたようです。そこから導き出された結論は
「歩兵・騎兵・砲兵の三兵を柱とする西洋式の軍制にもとづき、西洋式の小銃・大砲を導入し、それらの火器を集団的に運用する」
というものでした。それは、江戸時代を通じて続いてきた
軍役(大名や旗本が、戦争時に自らの石高に応じて決められた兵力を動員する制度)による部隊編成や、火縄銃に代表される武芸としての和流砲術を否定する
ことでもあったのです。坦庵は、書物による理論の研究だけでなく、西洋式の砲術を自ら習得することを試みます。そこで坦庵が
注目したのは、
高島秋帆という人物でした。
天保3年(1832)から5年にかけて、長崎会所調役高島秋帆は、オランダから兵学書・砲術書とともにモルチール砲(臼砲)や燧石式ゲベール銃を輸入し、西洋砲術の研究を始めました。父四郎兵衛とともに荻野流の砲術を修め、和流砲術にも通じていた秋帆は、出島に出入りしてオランダ商館長とも接触できる自らの立場から、より進んだ西洋の砲術を知り、強い興味を持つようになったのです。秋帆は、取り寄せた西洋砲を用いて実験を繰り返しました。また自らも青銅製の臼砲を鋳造するなど積極的に研究を進め、やがて西洋砲術を
自己の流派として確立していきます。その秋帆に、坦庵は代官役所の手代柏木総蔵(忠俊、後に足柄県令)らを入門させ、西洋砲術についての情報収集を行わせています。