江戸湾を防備する各藩の備砲は、威力・射程距離共に、それらに遠く及びませんでした。江戸城と江戸の市街は、ペリー艦隊の脅威に、ほとんど無防備でさらされる事態となったのです。
こうした時代背景の中で、
武蔵・相模・伊豆・
駿河・
甲斐の五か国にまたがる、10万石におよぶ幕府直轄領を管轄して いた韮山代官江川
太郎左衛門英龍(
坦庵)は、代官としての立場から、数多く来航する外国船に対してどのようにして海岸線、特に江戸湾を守るかに
ついてトータルな海防構想を練り上げていました。そして坦庵は、自らの考えを幕府に度々上申してもいたのです。
江川坦庵の業績としてよく知られている、西洋砲術の導入・反射炉の建設・江戸湾内海台場の築造・洋式船の建造・農兵
採用論などは、すべて海防上の必要から導き出された、実際的かつ先駆的な業績であったといえます。
ここでは、その中から特に
@西洋砲術導入、
A反射炉建設、
B台場築造の三つの点について紹介します。これらはいずれも、西洋の進んだ科学技術(軍事技術)の導入・国産化を目指したもので、明治維新後の日本の軍 備近代化の基礎のひとつともなっています。