工事を請け負った業者の技術力や、ペリーの再来航に備えての緊急工事であったために、可能な限り工期を短縮しなければならなかったことなどが、理由として考えられます。
台場は、実際にはどのようにして作られたのでしょうか。台場築造に必要とされた資材は、埋め立て用の土砂、基礎固めや石垣に用いる石材、土台を組むための木材を中心として、縄や釘、俵など多岐におよんでいます。この内、土砂は品川御殿山近くの畑地や高輪泉岳寺の岡土など、建設現場付近から調達されています。石材は大部分が相模と伊豆から切り出され、海路現場へと輸送されました。松・杉などの木材は、関東一円の御林(幕府直轄林)から伐採され、数多くの村々で伐採・製材・輸送のために人足が動員されました。
工事には、さらに多くの人足が雇われています。現在のような建設作業用の動力機械などない当時、大規模な土木工事はまさに人海戦術によって推進されたのです。台場の工事は、特に竣工が急がれたため、人足たちには通常の相場よりかなり高い賃銭が支払われていたといいます。
では、工事はどのように進められたのでしょう。御小人目付として 台場築造に関わっていた高松彦三郎という人物の日記によれば、工事はまず基底部となる海底の埋め立てから始まっています。最初に小さな島を築き、その周囲を埋めていく形で埋め立てを進めます。ついで直径5・6寸、長さ2間半から3間の地杭(石垣を支える基礎となる杭)が等間隔に打ち込まれます。地杭の上には算盤木と土台木が井桁に組まれて木枠を形作り、間には小石や土砂が詰められて基礎が完成します。この基礎の上に、石垣が築かれました。つまり、台場という人工島は、木製の基礎によって支えられていることになります。
台場築造工事は、入札によって請負人が決められました。第一〜第三・第六・第八台場を大工棟梁平内 大隅が、第四・第五・第七・第九台場を勘定所御用達岡田治助が、それぞれ落札しています。
嘉永6年8月21日、第一から第三台場までが着工、翌安政元年正月には第四から第七台場、および陸上の御殿山下台場の工事が始まりました。波による土砂の流出や悪天候による中断などの困難を経て、安政元年5月3日、ようやく第一から第三台場の竣工を見ました。しかし、既に幕府は計画の縮小を決定していました。第四台場と第七台場の工事を中止し、第五・第六・御殿山下台場の完成を急ぐこととしたのです(同年11月竣工)。その結果、第四・第七台場は未完成、第八以降の台場は未着工のままとなりました。
台場が、当初計画のいわば半分の規模となってしまった背景には、幕府財政の問題が大きく関わっていました。計画の半分といっても、最終的に台場築造には75万両あまりの巨額の費用が投入されています。さらに、この頃幕府には京都御所造営の計画があり、そちらに予算を振り向けたいという思惑も、台場築造中止の要因となっていたと考えられます。
一応の完成を見た台場には、80ポンドの大型カノン砲を含む20〜30門の大砲が配備されました。安政2年2月には、将軍徳川家定上覧のもと、大砲の試射も行われています。なお、台場の大きさは、第一から第三台場がおよそ九千から一万坪、第四から第六台場がおよそ五千八百から六千六百坪ほどとなっています。例えば、第三台場は一辺およそ172メートルの正方形(正確には波止場部分に約35メートルの辺を持つ五角形)をなしています。ちなみにその広さは、甲子園球場のグラウンドの約二倍にあたります。
台場の配置は、江戸湾内の澪筋(水深の深い水路)や隠れ洲(水深の浅い場所)の位置を計算に入れて決められていました。大きな船は喫水が深いため、澪筋を通ってしか江戸湾の奥に進むことができません。従って、水深の浅い洲の突端に台場を築いて、その間の水路を防御するという台場の配置は、蒸気船などの大型の艦船に対して、一定の効果を持っていたと思われます。
安政元年(1854)3月に調印された日米和親条約を皮切りに、各国との和親条約・通商条約を締結することで、日本は本格的に開国への道を踏みだします。しかしこれは、結果として尊皇攘夷運動、さらに討幕運動の活発化につながり、江戸幕府崩壊への流れを早めることになりました。
その後、公武合体運動や文久の改革などによって一時的には命脈を保つかに見えた幕府ですが、慶応3年(1867)10月の大政奉還、翌年正月の鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争での幕府軍の敗北によって幕府は倒れ、江戸時代は終わりを告げたのです。
こうした幕末維新の動乱の中で、将軍の居城である江戸城、そして江戸の街を守るため造られた台場は、一度も実戦に用いられることなく、明治という時代を迎えたのでした。
明治維新後、台場の所有権は陸軍省・内務省・民間さらに海軍省と、二転三転しました。品川灯台が設置された第二台場や、水上警察署の出張所が置かれた第五台場のように、東京湾内の安全を守るために使われた台場もあれば、戸田村出身の緒明菊三郎経営の造船所として利用された第四台場、海中の基礎のみで工事が中断されていたことから、牡蛎の養殖場として使われた第七台場、第二次世界大戦時に、帝都防衛のために高射砲が設置された第三台場など、その利用法も実にさまざまでした。また、大正2年(1913)の夏には、第一・第三・第六台場を解放して、東京毎夕新聞社主催の納涼会が開催されるなど、イベント会場としても利用されたことがあったようです。
大正12年(1923)の関東大震災では、各台場も石垣が崩れたり、内部の建物が倒壊したりするなどの被害を受けました。この内、第三台場と第六台場は、大正13年に国の史跡名勝天然記念物に仮指定(大正15年本指定)され、それを受けて東京市による補修工事が行われています。
第二次大戦後は、第五台場に一時的に戦災孤児収容施設が置かれたこともありましたが、東京港修築計画に伴う大規模な埋め立て工事によって、第三・第六以外の台場は、あるいは埋め立て地内に取り込まれ、またあるいは工事や船の通行に支障があるという理由から浚渫撤去され、昭和37年(1962)頃までには、東京湾からその姿を消していったのです。