お 台 場

 今日、東京湾内のお台場地区は、大規模な商業施設やテレビ局、超高層マンションなどが建ち並ぶ、東京の新名所となっています。しかし、そもそも「お台場」とは一体何なのでしょうか。台場とは、今から150年前の江戸時代末期、外国の艦隊から江戸を守るために人工的に築かれた海上砲台、つまり軍事施設です。現在、レインボーブリッジの下に浮かんでいる二つの小島には、かつて何十門もの大砲が備え付けられ、異国船の来航に備えていたのです。
レインボーブリッジ下の三番台場(左)と六番台場(右)
 レインボーブリッジ下の
 
三番台場(左)と六番台場(右)

 嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる黒船艦隊とその艦載砲の威力の前に、やむなくアメリカ合衆国大統領の親書を受け取った幕府に対して、ペリーは翌年春の再来航と親書への回答受領を約して退去していきます。この時のペリーとの交渉は、幕府中枢部の人々に改めて海防強化の必要性を痛感させました。それは、ペリー退去後すぐに、勘定奉行かんじょうぶぎょう川路かわじ聖謨としあきらや韮山代官江川坦庵らが、相模さがみ(現神奈川県)から安房あわ(現千葉県)にいたる江戸湾岸の巡視を命じられているところからも見て取ることができます。

 坦庵らは、富津ふっつ(現千葉県富津市)〜旗山崎(現神奈川県横須賀市)間に9基の台場を築いて江戸湾の入口を封鎖する案を最上としていましたが、莫大な費用がかかる上に、完成までに20年は必要で、ペリーの再来航に間に合わないことは明らかでした。そこで次善の策として、江戸湾の奥、品川猟師町(現品川区)から深川洲崎(現江東区)にかけて、12基(海岸砲台含む)の台場を築くことが決定されました。そして、台場の設計および築造の担当者に任命されたのが、常々海防に関する建議を行ってきた、江川坦庵だったのです。
 台場築造を命じられた江川坦庵は、その設計にあたって、西洋式の築城術を取り入れることを考えました。参考資料となったのが、ハッケヴィッツ(Hackewitz)著のドイツ語の原書から、エンゲルベルツ(Engelberts)がオランダ語に訳した築城教本だったといわれています(江川家には、この書物のオランダ語の写本が伝来しています)。その中から、坦庵は台場設計の基本理念として「間隔連堡かんかくれんほ」という考え方を導入しました。これは複数の台場を一定の間隔をもって築き、それぞれに役割を分担させる方式です。つまり、各台場に備え付けられた大砲の火線が死角なく交わるようにすることで、攻撃力と防御力を高めようとするものです。


お台場模型
 お台場模型
 台場は当初、『築城典刑ちくじょうてんけい』(ペル著・大鳥圭介訳)に見られるような典型的な稜堡式城塞りょうほしきじょうさいとして設計されていたと考えられます。そのことは、江川家に伝来する木製の台場模型と、『築城典刑』の挿図との類似からも窺えます。しかし、実際に築造された内海台場は、同じ西洋式でも、より単純な多角形式のものとなっています。設計変更の時期や理由について明確にわかる史料がなく、詳細は不明ですが、
工事を請け負った業者の技術力や、ペリーの再来航に備えての緊急工事であったために、可能な限り工期を短縮しなければならなかったことなどが、理由として考えられます。

 台場は、実際にはどのようにして作られたのでしょうか。台場築造に必要とされた資材は、埋め立て用の土砂、基礎固めや石垣に用いる石材、土台を組むための木材を中心として、縄や釘、俵など多岐におよんでいます。この内、土砂は品川御殿山近くの畑地や高輪泉岳寺の岡土など、建設現場付近から調達されています。石材は大部分が相模と伊豆から切り出され、海路現場へと輸送されました。松・杉などの木材は、関東一円の御林おはやし(幕府直轄林)から伐採され、数多くの村々で伐採・製材・輸送のために人足が動員されました。

 工事には、さらに多くの人足が雇われています。現在のような建設作業用の動力機械などない当時、大規模な土木工事はまさに人海戦術によって推進されたのです。台場の工事は、特に竣工が急がれたため、人足たちには通常の相場よりかなり高い賃銭が支払われていたといいます。
 では、工事はどのように進められたのでしょう。御小人目付おこびとめつけとして 台場築造に関わっていた高松彦三郎という人物の日記によれば、工事はまず基底部となる海底の埋め立てから始まっています。最初に小さな島を築き、その周囲を埋めていく形で埋め立てを進めます。ついで直径5・6寸、長さ2間半から3間の地杭(石垣を支える基礎となる杭)が等間隔に打ち込まれます。地杭の上には算盤そろばん木と土台木が井桁に組まれて木枠を形作り、間には小石や土砂が詰められて基礎が完成します。この基礎の上に、石垣が築かれました。つまり、台場という人工島は、木製の基礎によって支えられていることになります。
 台場築造工事は、入札によって請負人が決められました。第一〜第三・第六・第八台場を大工棟梁平内へいのうち 大隅おおすみが、第四・第五・第七・第九台場を勘定所御用達岡田治助が、それぞれ落札しています。
 嘉永6年8月21日、第一から第三台場までが着工、翌安政あんせい元年正月には第四から第七台場、および陸上の御殿山下台場の工事が始まりました。波による土砂の流出や悪天候による中断などの困難を経て、安政元年5月3日、ようやく第一から第三台場の竣工を見ました。しかし、既に幕府は計画の縮小を決定していました。第四台場と第七台場の工事を中止し、第五・第六・御殿山下台場の完成を急ぐこととしたのです(同年11月竣工)。その結果、第四・第七台場は未完成、第八以降の台場は未着工のままとなりました。
 台場が、当初計画のいわば半分の規模となってしまった背景には、幕府財政の問題が大きく関わっていました。計画の半分といっても、最終的に台場築造には75万両あまりの巨額の費用が投入されています。さらに、この頃幕府には京都御所きょうとごしょ造営の計画があり、そちらに予算を振り向けたいという思惑も、台場築造中止の要因となっていたと考えられます。
 一応の完成を見た台場には、80ポンドの大型カノン砲を含む20〜30門の大砲が配備されました。安政2年2月には、将軍徳川家定上覧のもと、大砲の試射も行われています。なお、台場の大きさは、第一から第三台場がおよそ九千から一万坪、第四から第六台場がおよそ五千八百から六千六百坪ほどとなっています。例えば、第三台場は一辺およそ172メートルの正方形(正確には波止場部分に約35メートルの辺を持つ五角形)をなしています。ちなみにその広さは、甲子園球場のグラウンドの約二倍にあたります。
 台場の配置は、江戸湾内のみお筋(水深の深い水路)や隠れ(水深の浅い場所)の位置を計算に入れて決められていました。大きな船は喫水きっすいが深いため、澪筋を通ってしか江戸湾の奥に進むことができません。従って、水深の浅い洲の突端に台場を築いて、その間の水路を防御するという台場の配置は、蒸気船などの大型の艦船に対して、一定の効果を持っていたと思われます。

 安政元年(1854)3月に調印された日米和親条約を皮切りに、各国との和親条約・通商条約を締結することで、日本は本格的に開国への道を踏みだします。しかしこれは、結果として尊皇攘夷そんのうじょうい運動、さらに討幕運動の活発化につながり、江戸幕府崩壊への流れを早めることになりました。
 その後、公武合体運動や文久の改革などによって一時的には命脈を保つかに見えた幕府ですが、慶応3年(1867)10月の大政奉還たいせいほうかん、翌年正月の鳥羽とば伏見ふしみの戦いに始まる戊辰ぼしん戦争での幕府軍の敗北によって幕府は倒れ、江戸時代は終わりを告げたのです。
 こうした幕末維新の動乱の中で、将軍の居城である江戸城、そして江戸の街を守るため造られた台場は、一度も実戦に用いられることなく、明治という時代を迎えたのでした。

 明治維新後、台場の所有権は陸軍省・内務省・民間さらに海軍省と、二転三転しました。品川灯台が設置された第二台場や、水上警察署の出張所が置かれた第五台場のように、東京湾内の安全を守るために使われた台場もあれば、戸田へだ村出身の緒明おあけ菊三郎経営の造船所として利用された第四台場、海中の基礎のみで工事が中断されていたことから、牡蛎かきの養殖場として使われた第七台場、第二次世界大戦時に、帝都防衛のために高射砲が設置された第三台場など、その利用法も実にさまざまでした。また、大正2年(1913)の夏には、第一・第三・第六台場を解放して、東京毎夕新聞社主催の納涼会が開催されるなど、イベント会場としても利用されたことがあったようです。

 大正12年(1923)の関東大震災では、各台場も石垣が崩れたり、内部の建物が倒壊したりするなどの被害を受けました。この内、第三台場と第六台場は、大正13年に国の史跡名勝天然記念物に仮指定(大正15年本指定)され、それを受けて東京市による補修工事が行われています。
 第二次大戦後は、第五台場に一時的に戦災孤児収容施設が置かれたこともありましたが、東京港修築計画に伴う大規模な埋め立て工事によって、第三・第六以外の台場は、あるいは埋め立て地内に取り込まれ、またあるいは工事や船の通行に支障があるという理由から浚渫しゅんせつ撤去され、昭和37年(1962)頃までには、東京湾からその姿を消していったのです。


お台場海浜公園より 現在の六番台場
     お台場海浜公園より
    
三番台場・六番台場をのぞむ
     現在の六番台場

 残された二つの台場の内、第三台場は現在お台場海浜公園と陸続きになっており、「第三台場史跡公園」として一般に開放されています。一方第六台場は立ち入りが禁止されていて、草木の生い茂る緑の小島として、東京湾内の野鳥のオアシスとなっています。レインボーブリッジの遊歩道を歩けば、二つの台場を高所から見下ろすことができます。また、日の出桟橋を発着する水上バスでお台場海浜公園に向かえば、海上から六号台場を間近に眺めることができます。
◎新橋駅から「ゆりかもめ」利用 「お台場海浜公園」駅から徒歩20分
◎新木場または大井町から「りんかい線」利用 「東京テレポート」駅から徒歩25分
◎日の出桟橋(浜松町)から「水上バス」利用 「お台場海浜公園」から徒歩20分

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