農  兵


 江川英龍は、幕府に提出した海防論の中で、何度も農兵制度の採用を上申しています。農兵とは、平時は農民として田畑の耕作に従事している者たちが、異国船来航などの非常時には、武器を持った兵士として活動することを可能にする制度です。
 英龍が農兵採用を強く求めた背景には、幕府による海岸防備体制の不備がありました。江戸時代の海岸防備は、一元的に組織されているものではなく、複数の藩がそれぞれ担当区域を分担して警備にあたっていました。つまり、非常時には各藩が担当区域に個別に兵を派遣しなければなりません。しかし、藩自体が内陸部に位置している場合など、緊急時に派兵が遅れたり、派兵するたびに多額の費用がかかったりするなど、不合理な点も多かったのです。
農兵記念碑(三島市役所前)
 農兵記念碑
    (三島市役所前)
 英龍は、そうした点を考慮した上で、日頃から韮山代官領の農民に軍事的な訓練を施し、危急の際には農兵として動員して、迅速に海岸防備体制をとれるようにすることを考えたわけです。実際、韮山代官所の膝元にあたる金谷村の農民の一部は、かねてから洋式の小銃などを用いた訓練を受けていたようです。例えば、安政元年(1854)のペリー再来航の際、アメリカ側との交渉の一端を担った英龍は、交渉にあたって代官所の手代らと共に金谷村の農民からなる一隊を鉄砲隊として随伴しています。
 しかし、幕府の正式な制度としての農兵は、英龍の在世中には実現することなく終わっています。たとえ一時的にでも、農民が武器を持つことを許可するというのは、兵農分離という原則を厳しく守ってきた幕府にとって、容易に受け入れられない要求だったからです。

 英龍没後、後を継いで韮山代官となった江川英敏は、改めて農兵採用の許可を幕府に求めました。既に幕府は、アメリカをはじめとする欧米各国と通商条約を結び、開国に踏み切っていましたが、その一方で頻発する一揆の鎮圧や治安維持にも配慮しなくてはならない状況に追い込まれていました。そうした中、文久3年(1863)10月、ようやく韮山代官支配所に限って農兵の採用が許されることとなったのです。
 その後、韮山代官領以外の幕府領や諸藩でも、兵力増強のための農兵制度採用が相次ぎ、幕末期には全国的な拡がりを見せるにいたりました。ただ、その訓練度の高さや装備の充実度においては、韮山代官領の農兵にまさるものはなかったといわれています。このことは、来るべき時代を見据えて早くから農兵制度実現への準備をしていた江川英龍の、先見の明によるものといってよいでしょう。


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