英龍は、そうした点を考慮した上で、日頃から韮山代官領の農民に軍事的な訓練を施し、危急の際には農兵として動員して、迅速に海岸防備体制をとれるようにすることを考えたわけです。実際、韮山代官所の膝元にあたる金谷村の農民の一部は、かねてから洋式の小銃などを用いた訓練を受けていたようです。例えば、安政元年(1854)のペリー再来航の際、アメリカ側との交渉の一端を担った英龍は、交渉にあたって代官所の手代らと共に金谷村の農民からなる一隊を鉄砲隊として随伴しています。
しかし、幕府の正式な制度としての農兵は、英龍の在世中には実現することなく終わっています。たとえ一時的にでも、農民が武器を持つことを許可するというのは、兵農分離という原則を厳しく守ってきた幕府にとって、容易に受け入れられない要求だったからです。
英龍没後、後を継いで韮山代官となった江川英敏は、改めて農兵採用の許可を幕府に求めました。既に幕府は、アメリカをはじめとする欧米各国と通商条約を結び、開国に踏み切っていましたが、その一方で頻発する一揆の鎮圧や治安維持にも配慮しなくてはならない状況に追い込まれていました。そうした中、文久3年(1863)10月、ようやく韮山代官支配所に限って農兵の採用が許されることとなったのです。
その後、韮山代官領以外の幕府領や諸藩でも、兵力増強のための農兵制度採用が相次ぎ、幕末期には全国的な拡がりを見せるにいたりました。ただ、その訓練度の高さや装備の充実度においては、韮山代官領の農兵にまさるものはなかったといわれています。このことは、来るべき時代を見据えて早くから農兵制度実現への準備をしていた江川英龍の、先見の明によるものといってよいでしょう。