津波は伊豆半島にも大きな被害をもたらしました。特に半島南端にある下田は壊滅的な打撃を受け、全戸数の90%以上を流失した上、85人もの死者を出す惨事となりました。下田では、折しもロシア使節プチャーチンが日露通好条約締結に向けて交渉をしている最中でした。プチャーチンの乗艦ディアナ号も津波のため船底を破損してしまいます。
英龍は、代官として管轄各地の被害状況を把握して対応を指揮するとともに、勘定奉行川路聖謨と協議の上、座礁したディアナ号を西伊豆の戸田(現沼津市)に回航して修理させることとなりました。ところが、下田から戸田に向かったディアナ号は、予想外の悪天候のため戸田に入港することができず、そのまま駿河国富士郡宮島村(現富士市)沖まで流されて座礁してしまったのです。結局、ロシア人乗組員およそ400人は救助されましたが、ディアナ号自体はあきらめざるを得ませんでした。
そこで、英龍は再度川路と連絡を取り、戸田においてディアナ号の代船を建造する方針を固めました。とはいえ、200トンクラスのディアナ号と同等の洋式船を建造することのできる設備は戸田にはなく、かつ代船引き渡しまで100日という期限が決められていたことから、100トンクラスの船を建造することになりました。ロシア人乗組員によって設計された代船は、2本マストのスクーナーで、日本で建造された初めての本格的な西洋式帆船となりました。建造にあたったのは、戸田村および周辺各地から集められた船大工たちでした。
安政2年3月、竣工した船は「戸田号」と名付けられ、ロシア側に引き渡されました。プチャーチン以下47名がこの戸田号に乗って帰国、残りの乗組員は幕府の手配したアメリカ商船によってロシアに戻っていきました。後日、ロシア政府は日本の対応に感謝の意を込めて、戸田号に52門の大砲を載せて返還してきたということです。
なお、戸田号建造にあたった人々によって、その後も同型の西洋式帆船が建造されています。これらの船は、建造地の郡名をとって「君沢形」と呼ばれるようになりました。 |