民   政


甲 州 微 行

 天保7年(1836)7月、飢饉に苦しんでいた農民たちによる大規模な一揆・打ち壊しが甲斐国(現山梨県)全域にわたって発生しました。甲州騒動とも呼ばれたこの一揆には、2〜3万人ともいわれる貧しい農民や無宿人が参加したとされています。甲斐国という一国天領(幕府直轄領)でこれほどの一揆が起きたことは、次第に幕府の支配体制が揺らいでいくきっかけのひとつともなりました。
 幕府が厳罰をもって臨んだことで、この一揆は鎮圧されましたが、図らずも甲斐における幕府代官の支配がうまく機能していないという事実を露呈する結果ともなりました。そこで幕府は天保9年、特に統治が困難とされていた甲斐国都留郡2万1千石余を、民政に巧みな代官として既に世に知られていた韮山代官江川英龍に支配させることとしたのです。
 これに先立つ天保8年、英龍は配下の斎藤弥九郎とともに刀剣の行商人に身をやつして甲斐・武蔵・相模を視察しています。特に甲斐では、代官の配下である手代らが地元の有力者と癒着して私腹を肥やしたり、不公平な施策を行ったりしていることが、大規模な一揆につながった主因であるとの結論を得ました。そこで英龍は、近い将来自分が甲斐の支配を命じられた際には、それまで代官所の役人らと結託していた有力農民らを処分するとともに、韮山から派遣した手代には質素倹約と公平無私を徹底させることで人心を掌握するという方針を定めていたものと思われます。
 実際、この英龍の支配方針は成功を収めます。また、一揆の際に打ち壊しの対象となる富裕な農民たちを教育して、飢饉の時に米を供出させたり、貸付金の元手とするための現金を差し出させたりするなど、貧農層との対立を緩和する政策を実施しています。こうして、難治とされた甲斐の支配も、英龍のもとで軌道に乗るようになりました。
 後年、英龍は甲州微行の様子を一幅の絵に描いています(甲州微行図、江川家蔵)。刀売りに化けた自らと斎藤弥九郎の姿をユーモラスに描いたこの絵は、英龍の筆になる数多くの絵の中でも特に有名で、静岡県の文化財にも指定されています。
甲州微行図(坦庵作)
  甲州微行図(坦庵作)



種  痘

 天然痘てんねんとう(痘瘡とうそう)は、伝染力が強いだけでなく罹患りかんした場合の死亡率も高い伝染病で、日本では「疱瘡ほうそう」の名で恐れられていた病気でした。天然痘が流行すると多くの人々が死に、運良く助かった場合でも顔や体に痘痕あばたが残りました。適切な予防法や治療法の知られていなかった江戸時代前期までの日本では、疱瘡を疫神として祀るなどの呪術的な方法に頼るしかなかったのです。
種痘記念碑(伊豆長岡町北江間)
 種痘記念碑(伊豆の国市北江間)
 天然痘の予防法としては、比較的古くから天然痘にかかった患者の「かさぶた」を粉末にして鼻から吸引させ、人為的に天然痘ウィルスに感染させることによって免疫を作り出す「人痘種痘法」という方法がありました。日本には中国からこの方法が伝えられ、安永7年(1778)頃から盛んに用いられましたが、人痘種痘法はその効果にばらつきがあり、あまり確実なものではありませんでした。
 ヨーロッパでは、1798(寛政10)年イギリスの外科医ジェンナー(Edward Jenner)が牛痘種痘法を開発しました。これは、牛のかかる痘瘡(牛痘)に感染した者が、天然痘に対して免疫を持つことに気づいたことから開発された方法で、牛痘に感染した牛から取り出したウィルス(痘苗とうびょう)を人間に接種することで、免疫を作り出すものです。この方法は極めて効果が高く、また人痘種痘法に比べて危険性も低かったため、世界的に広がっていきました。日本には、ロシア経由で文政7年(1824)頃にもたらされたことがありましたが普及せず、嘉永2年(1849)、佐賀藩主鍋島直正がオランダから輸入させた痘苗を用いて、藩医楢林ならばやし宋建そうけんが藩内へと広めていったことから、本格的な導入が図られ始めました。
 その後、種痘は緒方おがた洪庵こうあん伊東いとう玄朴げんぼくらによって積極的に実施されていきます。蘭学に造詣の深かった江川英龍はこうした動きにいち早く反応し、嘉永3年正月には、伊東玄朴に依頼して息子英敏と娘卓子に種痘を受けさせています。英龍はさらに、配下の医師肥田春安らに命じて試験的な種痘を行わせ、その結果が良好であることを確認した上で、同年2月管轄する韮山代官領全域に「西洋種痘法の告諭」を発しました。その文中で英龍は、自らのこどもたちにも種痘を行って成功したことを明らかにした上で、種痘を受けるよう諭しています。この告諭を受けて、肥田春安は助手とともに廻村して種痘の実施にあたりました。この事業は継続して行われ、その結果韮山代官領内における天然痘被害は激減したといわれています。この成功は、幕府の認めるところともなり、安政5年(1858)伊東玄朴や大槻おおつき俊斎しゅんさいらが中心となって江戸お玉ヶ池に種痘所が設置され、江戸町民にも種痘をうけるよう勧告がなされるにいたりました。
 なおこの種痘所は、文久元年(1861)には西洋医学所となり、さらに幕府直轄の医学所として明治維新まで活動を続けます。維新後は新政府に引き継がれ、後の東京大学医学部の前身となりました。

民政トップへ 戻 る 次 へ