反 射 炉

 江川坦庵の大きな業績のひとつとして、また旧韮山町のシンボルとして今日まで親しまれてきたのが、この反射炉です。「反射炉」とは、銑鉄せんてつ(鉄鉱石から直接製造した鉄で、不純物を多く含む)を溶解して優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶解するためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、天井部分が浅いドーム形となっており、そこに熱を反射集中させることでその高温を実現する構造となっています。
現在の反射炉
 現在の反射炉
反射炉内の図
 反射炉内の図
そこから、反射炉という名称が与えられたわけです。反射炉は、18〜19世紀にかけてヨーロッパで発達し、その構造やそれを用いた鉄製砲鋳造法などの知識は、天保年間には長崎の高島秋帆が輸入した蘭書などを通じて、日本にも伝わっていました。江川坦庵も、それらの蘭書を研究し、反射炉についての理解を深めていたものと考えられます。では、そもそもなぜ反射炉を建造し、鉄製砲を鋳造する必要があったのでしょうか。
 ヨーロッパで反射炉が発展した背景には、ナポレオンの存在がありました。19世紀初頭、ヨーロッパを席巻せっけんしたナポレオンは、優れた用兵家として知られていますが、彼の用兵の特徴は、砲兵を重視し、大量の野戦砲を迅速に運用するというものでした。これは、それまでの陸戦の常識を一変させる画期的なものであり、以後各国の陸軍は競って砲兵の充実を図ることとなります。ところが錫と銅はいずれも高価な金属であったため、青銅砲自体も高価なものとならざるを得なかったのです。そこで、より安価に大量の大砲を製造するために、相対的に価格の低い鉄を原料に用いた大砲作りが求められました。そして、鉄の高い融点の問題を解決するために開発されたのが、反射炉だったわけです。その事情は、日本でも同じでした。江川坦庵は、自らの海防政策を完成させる大きな柱として、青銅砲に代わる鉄製砲の大量生産を企図していました。
韮山反射炉の構造
 嘉永6年(1853)のペリー来航を契機に江戸湾海防の実務責任者となった江川坦庵に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を許可します。坦庵は早速建造に取りかかりましたが、ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた坦庵にとって、幕府の決定は遅きに失した観があったかもしれません。ともあれ、建造予定地は下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市高馬たこうま)とされ、嘉永6年12月には基礎工事も始められました。この場所が選ばれたのは、資材や原料鉄の搬入と、生産した大砲の搬出・回送の便を考えてのことだったと思われます。
しかし、翌安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという事件が起こりました。この時既に日米和親条約が締結され、下田は開港場となっていたため、今後も同様の事態が起こることが予想されました。そこで、急遽反射炉建設地を移転することになったのです。移転先は、韮山代官所にも近い田方郡中村(現伊豆の国市中)と決定されました。反射炉は、ヒュゲニン(Huguenin)著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書に基づいた、連双式(溶解炉を二つ備える)のものを2基、直角に配置した形となっていました。つまり、四つの溶解炉を同時に稼働させることが可能な設計です。
 その後、建造は比較的順調に進みましたが、安政2年正月、坦庵は反射炉の竣工を見ることなく病死してしまいます。後を継いだ江川英敏ひでとしは、坦庵の代から交流があり、また蘭学の導入に積極的で反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請しました。佐賀藩は、杉谷雍助ら11名を韮山に派遣し、英敏の要請に応えています。その結果、安政4年(1857)11月、すべての炉が稼働可能な状態となり、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成したのでした。なお、反射炉の周りには砲身の内部をくり抜くための錐台や付属品の細工小屋など、大小の施設が付属していました。反射炉は、それらの施設も含めて、大砲の製造工場だったといえます。完成した反射炉では、元治げんじ元年(1864)に使用が中止されるまでに、数多くの鉄製砲が鋳造されました。これらの砲は主として台場の備砲などとして用いられたものと考えられます。

明治42年当時の韮山反射炉
 明治42年当時の韮山反射炉
 明治維新後、反射炉は陸軍省に移管されましたが、そのまま使われることもなく放置されていました。次第に破損の進む反射炉の保存運動が本格化したのは、坦庵の没後50年にあたる明治38年(1905)頃からのことです。坦庵の五男で、最後の韮山代官となった江川英武ひでたけ(維新後韮山県令)の女婿であった山田三良さぶろう(東大法学部教授)らが中心となり、陸軍省の後援による保存修理事業を実現させたのです。
明治42年1月、周囲に鉄柵をめぐらせ、煙突には鉄帯をはめて補強された反射炉が完成しています。

 大正11年(1922)、内務省に移管されると同時に、反射炉は史跡名勝天然記念物法によって史跡に指定されました。また、反射炉の維持・保存のために有志による「韮山反射炉保勝会」も組織されています。
 その後は、昭和5年(1930)の北伊豆地震によって北側炉の煙突上部が崩壊するなどの被害を受けたこともありましたが、昭和32年・60年・平成元年の三回の修理を経て、現在もその姿を間近に見ることができます。幕末期には、佐賀藩や萩藩、水戸藩などでも反射炉が建造されましたが、当時の姿を最もよく残しているのが韮山の反射炉です。さらに、ヨーロッパでは製鉄技術の発展とともに高性能の高炉が開発されて反射炉に取って代わったため、やはり反射炉の遺構は残っていないといいます。そうした点からも、韮山反射炉は製鉄技術史の発展段階を示す、貴重な遺産であるといえるでしょう。

史跡韮山反射炉
名   称
指定区分
所 在 地
電   話
所 有 者
管 理 者
敷地面積
建築面積
高    さ
構   造

料   金
韮山反射炉
国指定史跡(大正11年3月8日指定)
静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268-1
韮山反射炉事務所 055-949-3450
国有(文部科学省所管)
伊豆の国市
3,068u
南炉:約30u・北炉:約30u
約15.7b
炉体部:外部伊豆石組積・内部耐火煉瓦アーチ積
煙突部:耐火煉瓦組積
大人100円 小中学生50円

◎三島駅から「伊豆箱根鉄道」利用 「伊豆長岡」駅から徒歩20分
◎伊豆長岡駅から「伊豆箱根バス」利用 「反射炉」停留所下車

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