江川英龍
(坦庵)

第36代江川英龍(坦庵)

(1801〜1855)
自画像
江川英龍(坦庵)年表
1801年
(享和元)
父英毅(ひでたけ)、母久子の次男として韮山で誕生
1818年
(文政元)


江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門
本格的な剣道を修業する。
道場四天王と呼ばれる
   剣道に励む  版画 森英二郎
兄弟子 斎藤弥九郎につく。二年後には免許皆伝となった。
1821年
(文政四)
兄 英虎が病死したため嫡子となる
1823年
旗本北条氏征(うじまさ)の娘と婚姻
1824年
韮山代官職見習(江戸、本所屋敷) 母久子を見舞う
母久子を見舞う 
版画 森英二郎
1830年
(天保元)
母久子 病死
 母久子からは、「早まる気持をおさえ、冷静な気持を常に持つように」と「忍」をさとされ、以後「忍」の文字を書き、懐中に携帯した。
1834年 父英毅 病死
1835年
韮山代官就任
江戸にて、高野長英、渡邊崋山等の
蘭学者の集い「尚歯(しょうし)会」が始められる。
後に「尚歯会」に参画。
1837年
剣友 斉藤弥九郎を手代に、大塩平八郎の乱後弥九郎と甲州微行(びこう)に出、一揆(いっき)を事前に抑える。
このように領内における英龍の
善政に対し、民衆から
「世直し大明神」といわれた。
甲州微行
 甲州微行(坦庵作)
1838年
米船モリソン号が浦賀に来航以来、英龍や川路聖謨(としあきら)
等は、海外文明の進歩度合や非戦論を幕府に差し出す。

1839年

鎖国維持派目付 鳥居耀蔵(ようぞう)の副官として、浦賀付近を測量
測量の道具
 測量の道具
1841年
高島秋帆(しゅうはん)、江戸 徳丸原(とくまるがはら)で砲術の実演をする。その後入門し、高島流砲術を修める。
1842年

江川塾を開き、佐久間象山をはじめ、全国の多くの藩より韮山へ入門者が訪れた。
一方、韮山で大砲(青銅製)、
小銃製造が本格化。

 反射炉敷地内 モルチール砲
1846年
(弘化三)
蘭、英、仏、露等、外国船の来航しきり。
開国を求められる。幕府の主要ポストも移動しきり。
1848年
(嘉永元)
砲製造先進の佐賀藩主 鍋島直正と会(かい)す。後々、反射炉や洋式鋳砲の技術交流がなされた。
1849年
英艦マリナー号 幕命を受け下田より退去させる。

(蜀江(しょくこう)の錦)

イギリス軍艦マリナー号が下田へ入港し、英龍が時の下田奉行にかわって退去交渉をした折、この装束を着、立派な統率者として、軍艦を退去させることに成功した。
蜀江の錦の袴
  蜀江の錦の袴
1850年
実子に種痘をし、成功。種痘接種を広める。
1851年
農兵の必要性を上申。
1853年
米国使節ペリー浦賀入国。
幕府海防掛(かかり)勘定吟味役格となる。
品川台場築造の命を受け、設計、起工。
高島秋帆を手代にし、中浜(ジョン)
万次郎を手附にする。
反射炉築造の命を受ける。
ペリー
     ペリー
1854年
(安政元)

ペリー再来日。日米和親条約調印。
下田、函館開港される。
中浜万次郎は徳川斉昭(なりあき)
反対で通訳方としては使えず、
蘭英辞典の作成を命ず。
反射炉を韮山鳴滝に築工始める。
品川台場完成。

江戸時代の洋書
 江戸時代の洋書

ディアナ号座礁見分救助、新造船
建造を戸田にて着工。
病勢悪化、幕府より勘定奉行の
命下り江戸へ
ヘダ号模型
ヘダ号模型
(戸田村造船郷土史料博物館蔵)

1855年

1月16日本所にて死亡。
韮山本立寺に葬られる
子英敏(ひでとし)が代官を
受けたのが16歳。
英龍墓
 英龍墓
1856年
実質的には柏木総蔵を中心に鉄砲方 芝新銭座大小砲習練場を初め台場御用、及び大砲鋳造等が引きつがれた。
この習練場には諸藩士の入門がつづき、黒田清隆、大山巖等
多くの人材を輩出した。

1858年

反射炉による鉄製砲完成

  靖国神社のカノン砲(韮山製)
1862年
英敏死亡。
弟英武(38代)相続最後の代官と
なった。
第38代英武
 第38代英武
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